前九年、後三年の合戦。人生の半分を戦に費やした奥州藤原氏 初代 藤原清衡は、敵味方を含め戦死した多くの人々を弔うために、残りの人生を平和な世の中を創るために費やします。
居を平泉に移して、まず行ったのが「中尊寺」の建立です。
清衡が治める奥州は当時、名産品である「金」と「馬」に加えて北方の蝦夷地、都との交易などで巨万の富を得ます。
その富を惜しげもなくつぎ込んだのが中尊寺「金色堂」を筆頭に、国宝級文化財の数々です。
当時の最高技術がふんだんに使われているのも、平安京と太いパイプで繋がっていたためでしょう。
二代 基衡(もとひら)は清衡の平和国家の思いを継いで「毛越寺」の建立を始めるなど、平泉の発展に寄与します。
三代 秀衡(秀衡)の時代になるとその財力、勢力は益々強大になり、平泉は平安京と並ぶほど繁栄し、秀衡は「奥州守」という奥州の支配者(キング!)の称号まで得ることとなります。
一方、京の都では「保元の乱」、「平治の乱」が起こり、戦で活躍した平家が台頭します。
平治の乱で敗戦した源頼朝は伊豆へ流刑に、父を失った頼朝の異母弟 源義経(幼名「牛若丸」)は京の鞍馬寺に預けられますが、そこを抜け出し藤原秀衡を頼って平泉へ逃れます。
それから20年、平清盛の統治が続きますが、それを嫌った後白河上皇が平家追討の命を出し、日本全国で大規模な戦(治承・寿永の乱)が起こります。
奥州は平家にも源氏にも加担することなく中立の立場を取り、戦に巻き込まれることなく平和と独立を保ち続けました。
ところが、源頼朝が挙兵したことを知った源義経は藤原秀衡の制止を無視して平泉を去り、平家との戦に参戦します。
結局、「壇ノ浦の戦い」で平家を滅ぼした源義経は、その手柄を独り占めしようとしたため頼朝と対立。頼朝に追われる身となるのでした。
追い詰められた源義経は再び平泉に逃げ延び、藤原秀衡はこれを受け入れます。
数年後、藤原秀衡が亡くなり四代 泰衡(やすひら)に代替わりすると源義経をかくまっていることが源頼朝にバレてしまいます。
源頼朝は藤原泰衡に源義経を討つよう迫り、泰衡は源氏との対立を避けるため、これを呑みます。
追い込まれた源義経は平泉の山中で自害。
さらに、そもそも強大で独立した勢力を持つ奥州藤原氏を警戒していた源頼朝は、源義経をかくまっていた罪は重いとし、奥州へ進軍。
100年の栄華を誇った奥州藤原氏はここに滅することとなるのでした。
義経が自害したとされる丘の上から望む北上川
国内に大きな敵がいなくなった源頼朝は征夷大将軍に任ぜられ、平安時代が終焉。
鎌倉幕府がはじまるのでした。
あー、やっぱり歴史って面白い!!
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