奥宮から207の石階段を下りて、右手に唐門、左手に陽明門を見つつ
正面にあるのが「神輿舎」。
春秋渡御祭(5月18日、10月17日)に使われる、家康公、豊臣秀吉公、源頼朝卿の神輿を納める建物で、天井に描かれる天女像は神輿が出ている時にだけ
見ることができるのだとか。
通常は締め切ってて内部は一切見られないのかと思いきや、
扉は開いていて、中の神輿を見ることができます。
三基の神輿のうち、恐らく中央が「寅」のレリーフがあるので家康公のもの。
右は「猿」のレリーフなので、豊臣秀吉のものでしょう。
左のには鳥居が。
消去法的に源頼朝の神輿となります。
何故に鳥居なのかしら?っというか、東照宮は家康を祀る神社。
どうして豊臣秀吉と源頼朝の神輿があるのかしら???
で、調べてみた。
東照宮の創建時には家康公の他に「山王(さんのう)神」と「摩多羅(まだら)神」が祀られていたそうな。
山王神は、日枝山(=比叡山)の山岳信仰と神道、それに天台宗の仏教が融合して成立した延暦寺の鎮守神。
山王信仰は「日吉」神社、「日枝」神社、「山王」神社などで全国的に知られています。
摩多羅神も天台宗の守護神。
これらは家康の側近で江戸幕府の政策に深く関わった天台宗の僧正「天海」が、
「山王一実神道」と説いたため、家康公の両脇に山王神と摩多羅神が配祀(はいし=同じ神社に複数の神を祀ること)されたのだそう。
「山王一実神道」とは天台宗の神道説。つまり仏教の中の神道。
ちなみに天海さん、明智光秀ではないかという説が。
大河ドラマ「麒麟がくる」のラスト、山崎の戦いで秀吉に敗れた光秀が
馬に乗って去っていく場面。
その後は.....。
話を戻して。
ところが明治時代になって、神仏習合の弊害を緩和し、神道と仏教、神と仏、神社と寺院とをはっきり区別させる「神仏分離」が行われました。
これにより山王神は豊臣秀吉に、摩多羅神は源頼朝に変更になるのですが、
その理由について、確かな根拠はわかっていません。
ただ明治元年(1868年)より30年近く前の天保10年(1839年)の「葵御紋考」には
「日光三社大権現 中央東照大権現 左山王権現 秀吉公 右摩多羅神 信長公」
と記されているそうなので、もともとは秀吉と信長だったのかもしれません。
謎です。
普段は見ることができないと言われる神輿舎の天井画。
しゃがんで覗き込むとギリギリ見ることができました。
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